家を流し、大切な人、大切な心まで津波は奪い去っていきます。
日本は、繰り返し繰り返し、津波被害に見舞われていますが、その恐怖は今も終わらず、それは、東日本大震災だけをみても明らかです。
これまで多くの大津波にあい、そして、その度に貴重な教訓を得てきたが、なかなかそれを未来に生かすことは難しい。
それだけ、津波の威力は大きい。津波被害の歴史を紹介します。
日本で発生した主な大津波
東日本大震災の記憶はまだ新しいが、その他、日本では大津波がその猛威を振るったという歴史があります。
被害状況も含めて、大津波の威力、自然災害の怖さを再認識しましょう。
昭和三陸地震津波
三陸沿岸部は、明治29年に起きた、明治三陸地震により大きな被害を受けた地域だが、それよりも強い揺れが観測され、三陸沿岸部に巨大地震が襲来。
家屋や船舶などに重大な被害が発生した。
昭和三陸地震津波の被害状況
この地震は、太平洋プレートが、陸側のプレートの下に沈み込む日本海溝付近で発生しました。
当時の海底地震としては、史上最大級の物で、太平洋の沿岸地域を中心に、震度5相当の揺れを記録しました。
震源が沖合だったため、津波は地震発生から、約30から40分で、三陸沿岸部に来襲し、再び寝静まった住民の多くが波に飲み込まれました。
津波の高さは、岩手県綾里村(現大船渡氏)の28.7mが最大。人的被害としては、重茂村(現宮古市、以下同じく)で175人、津軽石村2人、磯鶏村4人、宮古町2人の死者・不明者をそれぞれ記憶。
岩手県内における、死者・行方不明者は2600人を超えました。
また、この津波は、近代的な津波観測・研究体制の確立後初めてのもので、これを基に津波に関する各種の研究が進むことになりました。
昭和三陸地震津波のデータ
「津波発生時間」1933年3月3日2時31分
「津波の最大高」28.7m 岩手県綾里村(現大船渡氏)
「死者・行方不明者」3,064人
「家屋流失」4,034人
「家屋浸水」4,018人
東南海地震津波
地域に被災の様相が異なる東南海地震では、津波でも甚大な被害が発生しました。
しかし、太平洋戦争末期の混乱の最中に発生したこともあり、被害に関する数値は、調査により大きく異なっています。
東南海地震津波の被害状況
紀伊半島東部沖、熊野灘から遠州灘にかけてを震源域とした、プレート間地震で、三重県津市や静岡県御前崎町で震度を観測しました。
この地震によって、紀伊半島から伊豆半島の太平洋沿岸に津波が襲来し、その被害は、三重県、和歌山県に集中しました。
三重県は、地震に被害は少なく、家屋被害率も低かったのですが、津波による被害で、熊野灘沿岸の漁村で多くの死者が出ました。
和歌山県では、紀伊半島南部の那智町や勝浦町(現那智勝浦町)で津波による多くの死者がでました。
また、この地震が起こった時期が、太平洋戦争の敗戦が濃厚になった時期で、地震に関する調査資料は極秘とされ、千時の報道管制下で、被害報道も厳しく統制されました。
全国紙では、小さい扱いの記事とされただけでなく、「被害微小」という、曖昧で事実と反した報道がなされました。
そのせいもあり、現在伝えられている、被害数などのデータは、文献によって著しく異なっています。
東南海地震津波のデータ
「津波発生時間」1944年12月7日13時35分
「津波の最大高」9.0m 三重県尾鷲市盛松
「死者・行方不明者」1,223人
「家屋流失」30,59人
南海地震津波
戦後の痛手から、立ち直ろうとしていた日本に、さらに痛烈な打撃を与えた、南海地震津波での災害。
太平洋沿岸の広範囲に渡って、地域に津波が襲いかかり、三重県や和歌山県の沿岸では、その高さ4から6mに達しました。
南海地震津波の被害状況
紀伊半島南西部から、四国の太平洋沿岸を含む、南海トラフ沿いの地域を、震源域として発生したプレート間地震で、紀伊半島南部や四国太平洋沿岸などを中心に、広範囲に渡って、強い揺れが起きました。
これによって起きた津波は、静岡県から九州にかけての太平洋沿岸を襲い、三重県や和歌山県、徳島県、高知県の沿岸では、津波の高さは、4から6mの高さに達しました。
この津波で、和歌山県新庄村(現田辺市)、徳島県浅川村(現海陽町)、高知県須崎町(現須崎市)などに特に大きな被害がもたらされました。
いずれも、V字型の湾の最奥部に、人口の密集した集落がある場所ばかりでした。
この地震は、戦後まもなくの、混乱の最中に発生したため、観測データなどの質も低く、量も多くは残されていません。
南海地震津波のデータ
「津波発生時間」1946年12月21日4時19分
「津波の最大高」6.5m 和歌山県白浜町白浜
「死者」1,330人
「行方不明者」102人
「家屋流失」1,451棟
「家屋浸水」33,093棟
日本海中部地津波
この日本海中部地津波では、震源地が陸に近く、津波が地震発生からわずかの時間で襲いかかってきたため、逃げ遅れた多くの人々が犠牲となり、津波による死亡者が、地震そのものによる死亡者よりはるかに多い結果となりました。
日本海中部地津波の被害状況
男鹿半島沖から、津軽海峡の西側にかけて、広い範囲を震源域として発生した逆断層型の日本海中部地震。
この地震は、日本海側に発生したものとしては、ここ最大の規模であり、秋田県、青森県の日本海沿岸を中心に、強い地震動が生じて、秋田県、むつ市、深浦町で震度5が観測されました。
この地震により、大きな津波が発生し、気象庁の現地調査によると、津波の高さは、秋田県八竜町(現三種町)で6.6mにも達しました。
震源域が陸に近かったため、地震発生からわずか7分後に津波が襲来というところもあり、仙台管区気象台は、12時14分に東北地方の日本海沿岸と陸奥湾に「オオツナミ」の津波警報を発表しましたが、深浦、男鹿などでは、すでに津波が襲っていました。
日本海中部地津波のデータ
「津波発生時間」1983年5月26日11時59分
「津波の最大高」6.6m 秋田県八竜町
「死者」104人
「家屋全壊・流失」1,584人
北海道南西沖地震津波
この地震の震源域は、奥尻島も含むと推測されており、そのため、地震発生後まもなく、島に津波が押し寄せ、200人を超える死亡者を出すなど、大きな被害をもたらす結果となりました。
北海道南西沖地震津波の被害状況
地震は、渡島半島中央部の西の海域で、ほぼ南北に広がった領域を震源域として発生しました。
寿都町、江差町、小樽市、青森県深浦町で震度5。奥尻島は地震計が設置されておらず、震度6と推定されています。
この地震にともない、札幌管区気象台は、午後10時22分に、北海道の日本海沿岸に、大津波警報を発表しました。
しかし、震源域が奥尻島や渡島半島西部に近かったため、地震発生後数分で、津波が押し寄せました。
特に奥尻島では、地震発生から2,3分後に第一波が到達したものとみられ、北端部の稲穂地区、南端部の初松前と青苗地区、西海岸の藻内地区などが、壊滅的状態となりました。
また、この地震で、奥尻島の西岸で80cm、東部で20から50cm程度の地盤沈下が見られています。
海道南西沖地震津波のデータ
「津波発生時間」1993年7月12日22時17分
「津波の最大高」29.0m 北海道奥尻町
「死者」202人
「行方不明者」28人
「家屋全壊」601棟
「家屋一部破損」5,490棟
東日本大震災津波
東日本大震災の発生にともない、東北地方から関東地方北部の太平洋沿岸を中心に、北海道から沖縄にかけて、津波が発生しました。
岩手、宮城、福島の太平洋沿岸地域を中心に、甚大な被害を受けました。
東日本大震災津波の被害状況
三陸沖で発生した、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震により、最初の地震波の検知から、3分後の14時49分に岩手県、宮城県、福島県の沿岸に津波警報が、北海道から九州にかけての太平洋沿岸と小笠原諸島に津波警報と津波注意報が発表されました。
現地調査による痕跡高によれば、岩手県大船渡市で16.7m、福島県相馬市で8.9mなど、東北地方の太平洋岸を中心に、非常に高い津波が発生したほか、北海道から鹿児島にかけての、太平洋沿岸や小笠原諸島の観測施設で、1m以上の津波を観測。
特に、三陸沿岸では、その特徴となっている、リアス式海岸の形状が、津波の高さを増大させる要素もあり、東日本の太平洋沿岸各地で、未曾有の津波被害が発生しました。
この津波の波源域は、北海道から関東地方にかけての、太平洋沿岸及び、沖合にある津波観測点で得られた、津波の到達時刻をもとにした結果、岩手県沖から茨城県沖までの約550kmにわたると観測されています。
また、警察庁の発表によると、東日本大震災で、被害の大きかった岩手、宮城、福島3県で、震災から1年間に収容された死者1万5786人のうち、90%以上の1万4,308人の死因が溺死であることがわかりました。
東日本大震災津波のデータ
「津波発生時間」2011年3月11日14時46分
「津波の最大高」16.7m 岩手県大船渡市白浜漁港
「死者」16,278人
「行方不明者」2,994人
「家屋全壊」129,198棟
「家屋半壊」254,238棟
「家屋一部破損」715,192棟
漁業施設への被害
多くの死者、行方不明者そして家屋の倒壊と甚大な被害が出たこの津波ですが、その他にも、特に漁業施設には深刻な被害をもたらしました。
特に、北海道、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉の7道県の被害額は全国の99%以上に達しました。
主に、漁船や漁港施設、養殖施設などに大打撃を受けました。
フクシマの悪夢
最後に、忘れてはいけないのが、福島第一原子力発電所の被害です。
福島県大熊町、双葉町の福島第一原子力発電所では、地震と津波によって、6号機を除いて全交流電源を喪失する状態となり、核燃料や使用済燃料の冷却機能が長時間に渡って失われました。
2号機では、原子炉圧力容器が破損、1号機3号機では、原子炉建屋内に発生した水素が爆発して建屋が大破、定期検査中で運転していなかった4号機では、3号機から流入した水素によって建屋が破損するという事態になり、大量の放射能が周囲に撒き散らされることになりました。
住民の退避や立ち入りの制限などは、今も進行中です。
まとめ
日本で発生した、主な津波の歴史を見ると、東日本大震災津波の被害がどれだけ大きかったのか、そして自然の予測不能な猛威がどれだけ恐ろしいのかがよくわかります。
まだ、被災者にとっては、苦難を強いられる日々が続きますが、一日でも早い復興を祈りたいです。
そして、私たちは、その痛みを忘れないように、また、自分の身に災害が起きた時に、少しでも身を守れるように、準備しておかねばなりません。
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